• 暗黒の世界(1)


    「あなたは誰ですか?」

    私はその人にそう尋ねました。
    「わからない」
    そういって30歳ぐらいのその女性は首を振る。
    自分が誰だかわからないらしい。
    ここが何処なのかも。

    此処は深い深い海の底。
    光もいっさい届かない場所に作られた海底基地。
    世界からもっとも遠い場所。
    まわりは何もない海底にぽつんと建ってる巨大な海底基地。

    天井では蛍光灯が断続的に点滅を繰り返している。
    もういつ電気が切れてもおかしくないように。
    ジーというノイス音が静かな海底によくひびいてる。

    まわりには誰もいない。
    この部屋にいるのは私と30歳の女性だけ。
    この基地にも私たちしかいない。
    たぶん。

    わたしはこの人とふたりだけでこの深海に取り残されたのだ。
    光も届かないこの深い深い海底に置いてけぼりにされてしまった。

    「あなた、歳いくつ?」
    30歳がそう尋ねた。
    わたしは答えに窮す。
    わたしは何歳なのだろう。

    「9歳」
    そう答えてみると30歳女性は納得した様子でうなずいた。
    わたしは9歳ぐらいなのだろうか。
    わからない。

    「名前は?」
    「ゆう」
    「へー、ゆうちゃんか。どんな字書くの?」
    私は床に憂という字を指で書く。

    「オバさんの名前は?」
    オバさんは黙り込む。自分の名前が思い出せずに。

    立ち上がるとオバさんは窓から外を眺める。
    基地からもれる光で海水中のプランクトンが流れていく様子がよく見える。
    しかし光が届くのは3メートルほどだ。
    その先は何も見えない暗黒の世界。

    「ここって海底何メートルぐらい?」
    「1000メートル」
    とりあえずそう答えた。
    正確にはわからないけど、
    だいたいの感覚でそれぐらいであることはわかる。
    オバさんは恐ろしいことを聞かされたという表情を作っておどける。

    この人はたまにそうして愛嬌のあるところを見せた。
    よく喋るしけっこう明るい人のようだ。

    「どうして憂と私はここにいるの?」
    突然名前を呼び捨てだ。
    この人はそういう人なのだろう。
    「わからないけど、何か事故が起こってみんな死んじゃったんだよ。生き残っているのが私とオバさんだけ」
    「どんな事故」
    私は直接見てないので知らないと答えた。
    とにかくここで働いていた人たちはみんな死んだんだ。
    こうして生き残ってることは奇跡的なのかもしれない。

    「助けは来ないのかな」
    「来ないと思う」
    私は真実を告げるようにしてそう答えた。
    オバさんはすぐに納得してくれた。
    ここが深い深い海の底であることがわかったのだろう。
    世界からもっとも遠い場所だということが。
    忘れ去られた暗闇の世界だということが。

    「ここを脱出しないと」
    オバさんがそう言った。
    私にはその意味がわからない。脱出?
    「この深海基地を出て、地上に戻るんだよ」
    はじめてここ以外に世界が存在していることを知ったような気分だった。
    思えば私はここ以外の世界を知らない。
    わたしの記憶はすべてこの海底基地でのものだった。

    オバさんの隣に立ち、窓の外を見つめる。
    何もない暗黒の世界だと思っていたこの暗闇の向こうに、
    私の知らない世界があるというのか。

    どんな世界だろう。

    わたしはそれを見てみたいと思った。
    闇の向こうのもうひとつの世界を。

  • 暗黒の世界(2)


    オバさんのあとについて基地を散策した。
    廊下は電気が半分ほどしか点いていおらず薄暗い。
    切れかけのようにチカチカと点いたり消えたりしている蛍光灯もあった。
    各部屋は真っ暗で、ほとんどの所は電気が消えていた。
    薄暗い廊下ですら明るく思えてくる。

    オバさんは目当ての場所を見つけたように、ひとつの部屋に入っていく。
    入り口の壁のあたりをまさぐりスイッチを見つけるが、電気は点かない。
    その部屋はどうやら食堂のようだった。
    廊下の明かりで中の様子が少しだけわかる。
    いくつか並んだテーブルと椅子。
    奥は暗くてよく見えない。

    オバさんは暗い食堂に入っていく。
    わたしを置いてどんどん奥へ。
    「待って、オバさん」
    呼び止めるがかまわず奥へと進んでいく。

    仕方なくわたしも食堂へ入った。
    オバさんの姿はもうずいぶん奥だ。
    早く追いつかないと見失ってしまうだろう。
    走ってオバさんの後を追う。
    それでもオバさんの姿はどんどん遠ざかっていく。

    やっと追いついたときにはあたりはもう真っ暗で、
    廊下の光はまったくといいほどとどかない所まで来ていた。
    オバさんがゴソゴソやってる音を頼りに進むとその背中にぶつかった。

    「大丈夫?」
    そう言って床に尻もちをついたわたしを引き起こす。
    「待ってって言ったのに」
    オバさんは何も言わずふたたびガサゴソやり始めた。
    暗闇でも目が見えるのだろうか。

    「食べ物を探してるの?」
    「お腹が空いたからね。憂も何か食べたいだろ」
    言われてみるとそうかもしれない。
    基地で事故が起こって以来なにも口にしていないようだ。
    水分すらまともに摂っていない。

    「いいのを発見した」
    嬉しそうにこっちへ何かを投げてよこす。
    わたしはキャッチしそこねて、それを顔面にくらう。
    オバさんが投げたのはどうやらパンのようだった。
    缶詰とかだったら鼻の骨を折っていたかもしれない。

    わたしは床に落ちたはずのパンを拾おうとした。
    しかし落ちたはずの場所をいくら手探りで探してもパンはなく、
    暗闇をカラづかみするだけだった。

    そうしているうちに今度は第二弾のパンが飛んできて頭を直撃する。
    暗闇の中でもその様子が見えていたかのように、
    オバさんの笑い声が食堂に広がる。

    廊下に戻ると目が痛くなるほど蛍光灯がまぶしかった。
    わたしの両手には2袋のパンが、
    オバさんは両手には大きなスーパーの袋が握られていた。
    「さすが食堂だけあって食べ物が腐るほどあるね。でも冷蔵庫が止まってしまっていたから本当に腐ってしまっているものも多かったけど。惜しいことしたな」

    見つけたものをそのまま食堂前の廊下で広げて収穫を確かめる。
    パン・水・缶詰・お菓子・インスタント食品。
    そういった物がスーパーの袋に2つ分。
    これだけあれば一週間は困らないだろう。
    オバーさんの話では戸棚にまだたくさん食料や水が残されていたとのこと。
    大きな基地だけに食料はいくらでもあるようだ。

    たくさんある中からパンとお菓子を食べた。
    オバさんはこの基地のことを本当に何も知らないようで、
    あれこれとわたしに尋ねてくる。
    しかしわたしにもわからないことは多い。
    わたしは何の用でこんな海底基地にやって来たのか。
    そしてここで何が起こったのか。
    みんなどこへ行ってしまったのか。
    私たちの他に生存者はいるのか。

    「いるかも知れない。つぎはそれを探しにいこう」
    オバさんは言った。
    暗闇でも恐れずに突き進む力強さを持った人だった。