• さまよう生者たち(3)


    川はずっと浅いままだった。
    中ほどまで進んでも、水はふともものあたりまでしか上がってこない。
    流れも穏やかで、足をとられるようなこともなかった。

    向こう岸にたどりつき水から上がるとき、
    一度だけ後ろを振り返った。
    木がおおい茂った森が見えるだけだった。
    かつて自分がいた世界という感慨は得られなかった。

    ただの森。
    多分もう二度とも戻ることのない場所。
    私の人生。

    向こう岸にあがると腰を下ろして少し休んだ。
    足が乾くのをそうやって待ち続ける。

    こちら側も向こうと何も変わらない。
    森がどこまでも続いているだけ。

    足が乾くと服を戻して靴を履いた。
    誰かの借り物だけどわたしにちょうど合っている。
    同じような体型の人の物なのだろう。

    少し休むとわたしはふたたび歩きだした、。

    向こうからの続きのように道が1本森を走っているが、
    それは少し行くとすぐに途切れた。
    あとは道なき森を歩いていくしかない。

    周りは木ばかりだ。
    だがそれほど密生してるわけではないため、見通しはいい。
    空も良く見えた。
    まだ昼間で明るかったから。

    何かの物音に気づいたのは、日が傾きあたりが少し薄暗くなり始めた頃だった。
    わたしは足をとめ、音に注意を向ける。
    何か大きな物が動いているような低い地鳴りのような音だった。

    音はわたしの耳の中で鳴っているように大きく聞こえた。
    まるで耳鳴り。

    しかし音はたしかに外で鳴っている。
    それは確信できた。
    森で何かが動いている。

    わたしは近くの高い木に身を隠すようにして体を寄せ、あたりをうかがう。
    音が近づいて来ている。
    どんどん空気が耳を圧迫してくる。

    見通しはよいが、音の主はまだ見えない。
    すぐ近くまで来ていてもおかしくないような地鳴りがしていたが、
    まわりで動いているものはなかった。

    木を見上げてみる。
    電柱のような太さと高さの木だ。
    いざとなったらこれを登って上に避難しなくては。
    しかしわたしに出来るだろうか。
    木登りなんてしたことないのに。

    地面に目をやる。
    武器になるような物が落ちてないかとあたりを見回す。

    音が割れる。

    わたしは驚いて顔を上げる。
    何かがそばまで来ている。
    わたしの方へとどんどん迫ってきている。

    わたしは走り出した。
    近くに茂みがあった。そこに身を隠した方がいいと判断したのだ。
    外から丸見えの広い場所には立っていられなくなったと言った方が正確かもしれない。

    茂みには背の低い木や草がたくさん生えていた。
    急いでその中に潜り込む。
    まるで迷路の中のようなその空間を、音から逃げるようにして突っ走る。
    腰をかがめてなるべく体勢を低くして、突き進む。

    音がどの方向から迫ってくるのかはわからない。
    自分は逆に音の方へ自ら近づいていってるのかもしれない。

    音が割れながら近づいてくる。
    苦しみにうめいているような不気味な鳴き声のよう。
    それがどんどん大きくなりながら、わたしに迫ってくる。

    私は茂みに足をとられ転んだ。
    痛みにおもわず声をもらしてしまう。

    音の主が笑ったような声を出す。
    わたしの居所を発見したかのように、方向を変え、
    猛烈なスピードで近づいてくる。

    わたしは立ち上がることもできず、目閉じてその場でうずくまる。
    体が痙攣したしたように激しく震えている。
    心の中で助けを求める。

    助けて。

    助けて。

    音がわたしを見下ろしていた。
    怯え、震えている小さなわたしを。

  • さまよう生者たち(4)


    私は失くした記憶を少し思い出したような気がした。
    はるか昔に忘れてしまった遠い記憶。

    音が遠のいていく。

    私を探し、追ってきたはずの不気味な音が遠ざかり、
    どこかへ去っていく。

    気づくともう私は震えてはいなかった。
    何者にも怯えてはいなかった。
    遠い日の記憶に浸りながら、過ぎ去った時間のことを考えていた。

    あたりは静寂を取り戻した。

    私は静けさの中に横たわり、
    薄暗くなり始めた空を見つめていた。

    体を起こしてあたりの様子を確かめてみる。
    茂みが何者かに荒らされたように荒れていた。

    音がすぐ近くまできたことを証明付けるように。

    突然遠くで悲鳴のような動物の鳴き声がした。
    私は立ち上がろうとしていたが、
    動きを止めた。

    さらにもう一度大きな泣き声が聞こえた。
    断末魔の叫びのようだ。

    私は立ち上がり、声の正体を確かめようとあたりを見渡した。
    声のした方は果てしない森が広がっているだけだ。

    ここからでは何も見えない。

    私はそうやってしばらく森の奥に目を凝らしていた。
    しかしもう声がすることはなかった。
    声も音もどこかへ去ってしまったように森は平穏を取り戻していた。

    空は日暮れへと向かっていた。
    私はとりあえず歩くことにした。
    行くあてなどなかったが、その場に留まっているよりはましに思えた。
    不気味な音が追っかけてきたこの場所からは早く離れた方がいいだろう。

    私は急速に暗くなり始めた森をさらに奥へと歩いていった。
    声がした方とは逆の方角へと。

    あの断末魔の声の主はあの不気味な音にやられたのかもしれない。
    草食動物が肉食獣に襲われたような声だった。
    音に捕食されてしまったのだろうか。

    本当は私がやられるはずだったのだ。
    声の主は私の身代わりにされたのだ。
    本当は私がどこかに連れ去られるはずだったのだ。
    きっと。

    捕食者は息を殺していた私の気配を見失ったのかもしれない。
    代わりに近くを通りかかった草食動物を追って私のもとからは遠ざかっていったのだろう。

    誰も何も教えてくれないので私は自分なりにそう解釈するしかなかった。
    音は不気味で、間違いなく危険な存在だった。
    これまで出くわしたことのないほど邪悪な存在だったような気がする。

    いまこうして無事でいることに感謝しなくてはいけない。
    本当は私が断末魔の声を森中に響かせていたはずなのだ。

    森を進んでいくと高い崖に突き当たった。
    目の前に壁のように立ちふさがり、行く手を阻んでいる。

    見上げると空はもう真っ暗だった。
    すっかり日が暮れてしまい、森に夜が訪れていた。

    私は体を休める所を探そうと思った。
    ずっと歩いてきたので体がクタクタだ。
    どこか横になれるような所はないだろうか。

    崖沿いに歩いていくと暗いトンネルのような穴を見つけた。
    それほど大きな穴ではない。
    私でも身を屈めないと入っていけないぐらいの大きさだ。

    近づいてそっと中を覗き込んでみる。
    真っ暗で奥の様子はまったくわからなかった。

    ここなら雨風がしのげそうだ。
    私は身を屈めて中に入ってみた。

    しかしすぐに足を止めた。
    奥から何か聞こえた。

    何か気配がする。
    暗闇のすぐ向こうに誰かがいる。