• さまよう生者たち(1)


    蒸し暑くて汗が乾いてくれず不快だった。

    右手で額の汗を拭う。
    前髪が額に貼りつきジャマをする。
    肩まである髪は水分を吸って重くなっており、全体がベタついていた。

    もうだいぶ歩いてきたはずだ。
    荒い呼吸がそれを証明している。

    わたしは少し休憩をとろうか迷った。
    道端の草むらに腰をおろしてからだを休めたほうがいいかもしれない。

    その考えを否定すように両足は前へと歩みを進め、立ち止まることを拒んでいた。
    あせりを感じている心の内を見透かすかのように。

    細い山道を黙々と歩きつづけ、疲労は相当たまっているはずだった。
    少しでも休みをとった方がいいのだろう。
    もうずっと同じような景色がつづいていた。
    森の中を走るクネクネ折れ曲がった細い山道と、
    両脇から道を覆うように茂ってる木々。

    長い時間この道を歩いてきたが、誰ともすれ違うことはなかった。
    人が入らないような深い森の奥の道だ。
    人を見かけないのも無理はない。

    こんな所で人と出会うはずがないのだ。
    誰も住んでいないようなこんな所で。

    「こんな所」

    わたしは突然記憶の糸口を見失ったような感覚におそわれ、
    言葉をもらした。
    しゃべったのはずいぶん久しぶりのような気がする。

    こんな所。

    ここってどこだろう。
    わたしは考えてみる。
    両足はまだ目的地に向かってあくせく歩みを進めている。

    少し陽が傾いてきてる。
    さっきより日差しが弱まっていて、光が薄まっていた。

    ここはどこなんだろう。

    疑問をあたまで巡らせながら歩きつづける。
    歩きながらあたりの景色に目をやった。

    どこまでも続く深い森。
    曲りくねった細い道。

    ずっと見てきたおなじみの風景だった。
    どこにも変化はおこっていない。

    ここはどこだろう。
    そもそも私はどこに向かっているのだろう。

    自分の内側が空っぽであることを覗き見てしまったような
    恐ろしい気持ちにおそわれ、身が絞めつけられた。

    ここはどこだろう。
    そもそも私はどこに向かっているのだろう。

    わたしは足をとめて立ち止まった。
    足音がやむと、あたりにはわたしの断続的な呼吸だけが響いていた。
    額に貼りついている前髪ごと髪をかきあげ、頭皮を風にさらす。
    風が体に心地よかった。

    わたしはここで何をしているのだろう。
    こんな人も入り込まないような森にナゼいるのだろう。

    こたえは何も浮かばなかった。
    さっきまでしっかりあったはずのものが何かの手品のように
    陰も形も失い、大きな空間だけがそこにひろがっていた。

    わたしはどこかに向かっていたはずだ。
    しかしそれも思い出せない。
    休憩すらとらず必死に前へと突き進んでいたのに。

    いま歩いてきた道を眺めてみる。
    誰もいない。
    そこには森が見えるだけだ。
    細く曲がりくねった道が森へとつづいている。

    こうして後ろを振り返ったのは初めてだった。
    この場所に来るまで後ろも振り返ることなく歩きつづけて来たのだ。

    わたしはふたたび歩き出した。
    しかしすぐに足を止めた。

    どこへ行こうとしていたか思い出せずにいるのに、
    歩きだしていったいどうするつもしだったのか。

    突っ立ったままあたりを見回す。
    他にやりようがない。
    道端に腰をおろすこともできずに、道の真ん中で立ち尽くしていた。

    ここはどこだろう。
    どこへ向かっていたのだろう。
    私っていったい誰なんだろう。

  • さまよう生者たち(2)


    わたしは再び歩き出した。
    歩いていれば何か思い出すかもしれない。
    前へ進み続けていれば答えに辿りつくかもしれない。

    これまでと変わらない歩幅と歩調で道を歩いていった。
    頭にはいくつもの疑問が浮かんでくる。

    いつから記憶がないのか。

    憶えてることは森を歩いて来たということだけで、
    それより過去が何も思い出せない。
    この森に入り込む前はどこで何をしていたのか。
    記憶を辿っていくが視界はすぐにぼやけてしまい、
    入り口をほんの少し入っただけでもう進めなくなってしまう。

    もっとも古い記憶でも10分ほど前のものだ。
    いや、1時間ぐらい前のことも憶えてるような気もする。
    わからない。

    どちらにしろ森を歩いている記憶には変わりはない。

    森が突然途切れ、風景が一変した。
    大きな川が突如目の前に出現し、行く手をさえぎっていたのだ。
    川はゆっくりとした速度で流れ水面が少し波打っていた。
    水が濁っておりキレイな川ではないのだが、
    視界が開けたことが心を軽くしてくれた。

    わたしは足を速めて川辺へと進んだ。
    すぐそばまで来ると川はそれほど深くはないことがわかった。
    濁った水越しでも川底がみえた。

    川の中ほどはどうかわからないが、
    川幅が大きい割には水深はそれほどないようだ。

    対岸には森が広がっており、あちらに渡っても今まで歩いてきた風景と
    それほど変わらないように感じる。

    わたしの頭の奥の方から悲鳴が聞こえてきた。
    それはわたしの中で鳴っていた。
    悲鳴の主はわたしだ。
    痛みと苦しみで切り裂かれるような声を上げている。

    そこではじめて自分が死んだことを悟った。
    何かを思い出したというわけではないが、それでもはっきりとわかった。

    わたしは死んだのだ。

    それは揺るがしようのない事実として胸に収まった。
    ここは死んだ者が訪れる世界らしい。
    目の前にあるこの大きな川はいわゆる…

    あたりを伺ってみる。
    渡し舟でも登場するかもしれない。

    しかしそれらしき影は見えない。
    およそ誰かが迎えに来るような雰囲気ではない感じだった。
    ただ大きな川があり、静かに流れている。

    わたしは川辺に腰を下ろした。
    自分のからだを確かめてみるが痛んでいる場所はない。
    かなりの損傷があってもおかしくない死にかたをしたのかもしれないという
    予感を感じる。

    頭で鳴っていた悲鳴はもう聞こえない。
    しかしあの感じからすると穏やかな最後ではなかったであろうと予測がつく。

    傷ひとつないカラダをさすってみる。
    自分のからだを少し愛おしくかんじる。

    そうやってしばらく川辺でカラダを休めていた。
    しかしやはり渡し舟が迎えに来てくれる気配はない。

    初めてのことだし、何の予備知識も持ち合わせてはいないが、
    誰かが迎えに来なくてはいけないのではないのだろうか。
    担当の人というか、案内人というか。
    こちらはいったい何をどうしていいのかサッパリわからないのだ。
    初めてのことなんだから。

    わたしは立ち上がった。
    ずっとこうしていても仕方がない。
    かと言って今まで歩いてきた道をまた戻っていく気には到底なれない。

    渡るしかない。

    そう思いながら川を眺める。
    歩いて渡れるかどうかはやってみないとわからない。
    だめなら途中で引き返せばいい。

    わたしは靴を脱ぐ。
    見慣れない靴だ。他人のものを使わせてもらってるらしい。
    着ている服もすべてそうだ。
    どれもわたしの物ではない。

    準備を整え、川縁に立つ。
    もう一度川と向こう岸を入念に眺めた。
    渡ってしまったらもうこちらには戻ってこれないかもしれない。
    向こうにいったら本当に最後なのかもしれない。

    わたしは足を水につけ水面をかき回してみた。
    水はそれほど冷たくはない。
    渡れるような気がする。

    もう片方の足も川に入れた。
    やはり水深は深くない。
    水はすねのあたりまでしかこない。

    わたしはゆっくりと向こう岸を目指して歩き始めた。
    後ろを振り返ることもなく、ひたすら前だけ見つめて。